今から三百数十年前の寛文年間のこと。近江の国の箕作山(みつくりやま)の麓で小泉太兵衛が誕生した。誠実で、信仰心の篤い好人物であったと伝えられている。佐々木源氏の直系につながる由緒ある血筋を、彼がなぜ捨てたのか、理由はわかっていない。正徳年間に武士から農民に転身した太兵衛は、近隣に土地を買い求め、持ち前の勤勉さで米作りに励んだ。しかし、買った田は米がよく育たない悪田であり、毎年の年貢も満足に納められない。そこで太兵衛は、近江の麻布を仕入れ、播州や丹後、伊勢へと、しばしば行商に出かけるようになる。
熱心な商いによって収入が安定したことで、太兵衛は農業に見切りをつけ、商人として生きていくことを決心。そして近江商人特有の商道徳「三方よし」を基本に、商いに打ち込んでいく。太兵衛の遺した小泉家の家訓には「お得意様、お客様の信用・信頼を得ることを何事にも優先する」「投機的な仕事、濡れ手に粟の商法は厳しく戒める」など、商売に対するさまざまな信条が残されている。それらは300年を経た今も、小泉産業株式会社グループのDNAに刻み込まれている。
商売に没頭していた太兵衛だったが、晩年になって突然、出家をする。これも理由は定かではない。甥の利助を養子にし、後のことを託した彼は、諸国行脚の旅へ。6年後に帰郷し、地元に小さな寺を建て、地蔵を祀ったことがわかっている。1738(元文3)年に再び旅立ち、そして旅先で没した。没年は不明である。子孫の7代目新助が、太兵衛の恩に報いるため1887(明治20)年に五箇荘に建てた記念碑は、最後の旅に出た「1738年8月26日」を彼の命日と記している。