三代目小泉重助は、小泉グループの「実質的創始者」である。同族5人の出資で作った「小泉合名会社」が解消したのを受け、1915(大正4)年に大阪店を引き継いだ重助が始めた「小泉重助商店」が、現在の小泉産業グループにつながっている。
重助は商祖・太兵衛をほうふつとさせる「商魂の人」であったと言われる。好奇心も人一倍旺盛で、若い頃から中国やアメリカ、ヨーロッパへ渡り、各地を視察して見聞を広めた。特にアメリカでは、当時の大デパート経営者マーシャルフィールドに面会し、問屋の進むべき道について教えを請うている。このときマーシャルフィールドの語った「真の問屋は『特徴ある特殊品』によって生きなければならない」との言葉に大きな衝撃を受けた重助は、帰国後、この「特殊特徴品主義」を経営の根幹に据え、「人々の生活様式の変化に応えうる問屋」をめざしたビジネスを追求していく。
彼はよく「小泉商店は、小泉商店の製品を作ることを主題にして進んでこそ、世の中に存在する価値がある」と従業員たちに語った。その経営哲学は、現在も小泉産業グループの社会的存在意義を示す「バイブル」となっている。
大正から昭和にかけ、重助の小泉商店は着実に成長を遂げていった。1930(昭和5)年には、世界恐慌のさなかにも関わらず、新店舗を建設。地下倉庫もある3階建ての洋館で、建築費は30万円。当時の個人商店としては巨額の投資だった。
だが商売の鬼とうたわれた重助も、戦争には勝てなかった。太平洋戦争勃発後は、戦時下の統制や主力社員の徴兵などによって小泉商店の売上も伸び悩んだ。そして、1945(昭和20)年3月の大阪大空襲の日、積年の疲労によって持病の腎臓病が悪化した重助は、同年4月26日に帰らぬ人となった。享年66歳であった。