立澤四郎は、三代目重助の実質的な後継者として小泉商店に迎えられた男である。重助は、長男・伊助のパートナーとして自社の将来を託せる人物を求め、知人の彦根高等商業学校(滋賀大学の前身)の校長に相談する。これに応じて校長が「この男しかいない」と推薦したのが、立澤だった。1934(昭和9)年、伊助とともに小泉商店に入社した立澤は、商売の鬼とうたわれた重助の「20年30年の経営方針を考えて、店員の教育にも注力してほしい」という想いを実践していくことになる。
終戦後の1946(昭和21)年、立澤は五光精機から社名を改めた「小泉産業」の専務に就任し、その実質的な経営のトップとなる。小泉産業が、生活用品卸業を皮切りに、照明事業、家具事業と、新分野への挑戦を次々と成し遂げていく中で、立澤は商売に対する優れた才能とあふれる情熱、そして強力なリーダーシップを発揮していった。
社是にうたわれた「人格の育成向上」こそが、企業競争力の源泉であると考えた立澤。立澤が社員に求めたのは、商人道を歩むことによって人間の値打ちを高めていくことであった。「仕事に自分の生涯をかけ、不退転の決意で挑戦できる人格を養わねば、製造卸の仕事などやれるものではない」と立澤はよく社員に語った。1952(昭和27)年からは、7年間にわたって社員寮に寝泊まりし、就業後はほとんど毎日、深夜まで社員教育に取り組んだ。自ら手書きした教育用資料は1000ページ近くにもなっていたという。
小泉産業がまさに拡大期にあった1976(昭和51)年、立澤は急死を遂げる。小泉産業の「頭脳」であり、管理職や中堅社員にとっての「おやじ」的存在であった立澤の死は、会社全体に大きな衝撃を与えた。立澤の死後、小泉産業は企業再生をかけた「ニューボーン活動」を推進し、さらにブランドメーカーとしての「新創業」に挑戦していくが、それらを成し遂げられたのは、"立澤大学"で培われた粘りや精神力、バイタリティのお陰、と語る社員は多い。