小泉産業株式会社
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【小泉太兵衛】
●小泉太兵衛が生まれたのは、近江の国の箕作山の麓。
今から三百数十年前の寛文年間のことである。誠実で、信仰心の篤い好人物であったと伝えられている。佐々木源氏の直系につながる由緒ある血筋を、彼がなぜ捨てたのか、理由は分かっていない。
ともかく、正徳年間に武士から農民に転身した太兵衛は、近隣に土地を買い求め、持ち前の勤勉さで米作りに励んだ。だが買った田は、米がよく育たない悪田であり、毎年の年貢も満足に納められない。
そこで太兵衛は、近江の麻布を仕入れ、播州や丹後、伊勢へと、しばしば行商に出かけるようになる。

●熱心な商いによって収入が安定したことで、太兵衛は農業に見切りをつけ、商人として生きていくことを決心する。
そして近江商人特有の商道徳「三方よし」を基本に、商いに打ち込んでいく。
太兵衛の遺した小泉家の家訓には「お得意様、お客様の信用・信頼を得ることを何事にも優先する」「投機的な仕事、濡れ手に粟の商法は厳しく戒める」など、商売に対するさまざまな信条が残されている。
それらは300年を経た今も、小泉産業株式会社グループのDNAとして、間違いなく生き続けている。

●商売に没頭していた太兵衛だったが、晩年になって突然、出家をする。これも理由は定かではない。
甥の利助を養子にし、後のことを託した彼は、諸国行脚の旅へと出かけてしまう。
6年後に帰郷し、地元に小さな寺を建て、地蔵を祀ったりしていたが、元文3年に再びふらりと旅立ち、そして旅先で没した。没年は不明である。
子孫の7代目新助が、太兵衛の恩に報いるため明治20年に五箇荘に建てた記念碑は、最後の旅に出た「1738年8月26日」を彼の命日と記している。

※「箕作山」=「みつくりやま」




【三代目小泉重助】
●三代目小泉重助は、小泉グループの「実質的創始者」である。
同族5人の出資で作った「小泉合名会社」が解消したのを受け1915年(大正4年)、大阪店を引き継いだ重助が始めた「小泉重助商店」が、現在の小泉産業グループにつながっているのである。

●重助は商祖・太兵衛をほうふつとさせる「商魂の人」であったと言われる。好奇心も人一倍旺盛で、若い頃から中国やアメリカ、ヨーロッパへ渡り、各地を視察して見聞を広めた。
特にアメリカでは、当時の大デパート経営者マーシャルフィールドに面会し、問屋の進むべき道について教えを請うている。このときマーシャルフィールドの語った「真の問屋は『特徴ある特殊品』によって生きなければならない」との言葉に大きな衝撃を受けた重助は、帰国後、この「特殊特徴品主義」を経営の根幹に据え、「人々の生活様式の変化に応えうる問屋」をめざしたビジネスを追求していく。
彼はよく「小泉商店は、小泉商店の製品を作ることを主題にして進んでこそ、世の中に存在する価値がある」と従業員たちに語った。
その経営哲学は、現在も小泉産業グループの社会的存在意義を示す「バイブル」となっている。

●大正から昭和にかけ、重助の小泉商店は着実に成長を遂げていった。
1930年(昭和5年)には、世界恐慌のさなかにも関わらず、新店舗を建設している。地下倉庫もある3階建ての洋館で、建築費は30万円。当時の個人商店としては巨額の投資だった。
だが商売の鬼とうたわれた重助も、戦争には勝てなかった。
太平洋戦争勃発後は、戦時下の統制や主力社員の徴兵などによって小泉商店の売上も伸び悩んだ。そして、1945年3月の大阪大空襲の日、積年の疲労によって持病の腎臓病が悪化した重助は、同年4月26日に帰らぬ人となった。享年66歳であった。




【立澤四郎】
●立澤四郎は、三代目重助の実質的な後継者として小泉商店に迎えられた男である。
重助は、長男・伊助のパートナーとして自社の将来を託せる人物を求め、知人の彦根高等商業学校(滋賀大学の前身)の校長に相談する。これに応じて校長が「この男しかいない」と推薦したのが、立澤だった。
1934年(昭和9年)に伊助とともに小泉商店に入社した立澤は、商売の鬼とうたわれた重助の「20年30年の経営方針を考えて、店員の教育にも注力してほしい」という想いを実践していくことになる。

●終戦後の1946年、立澤は五光精機から社名を改めた「小泉産業」の専務に就任し、その実質的経営トップとなる。
そして小泉産業が、生活用品卸業を皮切りに、照明事業、家具事業と、新分野への挑戦を次々と成し遂げていく中で、立澤は商売に対する優れた才能とあふれる情熱、そして強力なリーダーシップを発揮していった。

●立澤は社是にうたわれた「人格の育成向上」こそが、企業競争力の源泉であると考え、社員の教育指導に全力を注いだ。
立澤が社員に求めたのは、商人道を歩むことによって人間の値打ちを高めていくことであった。
「仕事に自分の生涯をかけ、不退転の決意で挑戦できる人格を養わねば、製造卸の仕事などやれるものではない」と立澤はよく社員に語った。
1952年からは7年にわたって社員寮に寝泊まりし、就業後はほとんど毎日、深夜まで社員教育に取り組んだ。自ら手書きした教育用資料は1000ページ近くにもなっていたという。

●小泉産業がまさに拡大期にあった1976年(昭和51年)、立澤は急死を遂げる。
小泉産業の「頭脳」であり、管理職や中堅社員にとっての「おやじ」的存在であった立澤の死は、会社全体に大きな衝撃を与えた。
立澤の死後、小泉産業は企業再生をかけた「ニューボーン活動」を推進し、さらにブランドメーカーとしての「新創業」に挑戦していくが、それらを成し遂げられたのは、"立澤大学"で培われた粘りや精神力、バイタリティのお陰、と語る社員は多い。




立澤の考えたこと

立澤哲学のキーワード
黎明編近代創業編拡充編新創業編そして未来へ
三方よしを遺した「商祖」/小泉太兵衛企業の社会的存在意義を示した/三代目重助ブランドメーカーの道を拓いた/立澤四郎
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